人は死ぬほどの悩みを抱えて、どうにもならない時、救われる何かを求め禅に頼る人も多い。
人の悩みは千差万別で、そこには一定の法則があるわけがない。先でどうなるか誰も解らない。
つまり実態がなく、正体不明だからです。それを揶揄する禅のいい方が、悩みがあるなら 悩みを目の前に出して 見ろ! です。
一緒に坐禅していた仲間が、なんて事を言う!、失意のどん底で来ているのに悩みを聴いてもらい何とか救ってほしい、切羽詰まった心理状態です。
一人は負債を100億抱え倒産前、一人の女性は夫を亡くして、これから先途方に暮れていて切実です。大学の教授は癌で余命3か月を宣告され死相が出てました。
それは一時的な事象であって、実体そのものがない。禅の教えは自力で立ち直らせるきっかけを与えるだけ(修行させる)。救われると勘違いするなと言う事です。
悶々と黙って耐え修行を3-4か月も続けてると、自殺するかと思ってた社長は、息子に譲って立派に再建、倒産の様子をまじかに見た息子が人が変わったようにしっかりされた様です。
一人残された婦人は、だんだん元気になられ、若々しく華やかに人生を楽しんでおられます。
教授も元気を取り戻し、3か月の寿命が2年以上に伸びたと聞きました。
莫妄想と言う禅語があります。なにかにつけ悪い想像をめぐらし、解らない事を只、心配して悶々と悩む、妄想とは雑念や間違った想念であるので、無意味だと言う禅語で、今の時代特に、大事なファクターではないでしょうか? 世の事象は常に変わりどう変わるか解らない、諸行無常 の教えです。
雑念に囚われないようにするには、今やる事に集中する事、ひとつの事に集中すれば妄想に陥る暇もないからです。
この考え方が、忙しく、余裕のない一般社会人が出来るように、禅をイノベーションして新しい、独坐法 として確立しお勧めいたします。 大事なのは日常の生活に反映しなければ意味がありません。
別に難行苦行の修行では無く、心身を解放して自由に静かに黙想する 機会を常に作る事です。
自主訓練と言えば負担になるのであれば、お稽古のノリでも結構ですが続ける事だけは必須です。
詳しくはYouTube動画に公開しておりますので。ご覧ください。
新独坐法と新現代禅画 坐主 芝暗生