いざない

私は在家のまま修行僧と共に坐禅して、25年目で65歳の頃、歳には勝てずに(足腰の痛み、尿意、苦行の心身限界等)その上目標も見失い、挫折を繰り返し失意のどん底に落ち、もがき苦しみ、何の手がかりもなく、一人での座りに逃れ、すがる思いで続けている時、立禅と称される武術太極拳に出会い鍛錬に励み、立禅を新しい坐禅に置き換え、更に12年の歳月を要し、ついに自らの独坐の境地が開け、誰にでも活用できる、心のコントロール鍛錬法、簡化独坐法という、新しい座り方に到達しました。

77年の仏教と苦行禅から解放され、自由になった瞬間です。新たな力、頸力、霊力(清浄、不可思議の領域)との運命の出会いでした(私の著書参考)。

立禅の教えは心身に負担をかけず、柔和な瞑想の働きで脳を刺激し、血流を良くし、心と体のバランスを保つ、結果積極的な休憩となれる事であり、場所・性別問わず、100歳の人も大勢続けています。

気の全身循環運動にて、無意識領域をも効率的に開発を促し、同時に「心の平穏を取り戻す」と云う尊大なテーマに合っています。

修行とは違って訓練法ですから、楽しみの脳作用ドルフィンハイ(マラソンハイと同様)が存在して、継続しやすいメリットが認められます。

人々は苦境に立ったり、迷った時、もう限界と云う時に、古くから坐禅に秘められた救われる何かを求めて、門を叩く人は絶えません。

しかし苦行に耐えられず、結果得られずに失望して続きません。切実に心の平穏を求めているビジネスパーソンや一般人には、ハードルが高すぎて、とても乗り越えることは不可能なのです。

禅のイノベーションを起こして、今までの座禅とどう違うのか。短期でマスターし、求め得られる事とは何か。具体的なその方法と活用法とは。それらを提供する価値とは何かをお伝えするのは、精神の領域であり、人の脳内、それぞれの感じ方や自発性によるものには、断定出来ないので、言葉や文字では表現できません。

このペーパーは観念的に捉えとどめるだけにして、継続して体験し会得され、長い生存競争に活かされてこそ、広く受け入れられるものと確信します。

心得として決して頭で学ぼうとか、理解しようと思わない事。意識の集中です。ストレスやパニックで、気持ちがコントロールできない時こそ、とにかくそこで一端立ち止まって脳を休め、坐相を整えて(心柱を立てる)から座る事です。諦めず粘り強く繰り返すと、一座毎に心の変化を実感します。

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