禅の教え

滅多に聞けない話

昔、中国の地方都市の歴史ある国立図書館に、試験を次から次にパスした優秀な高級官僚館長が就任してました。中国の古代の官僚の資格は資質が無いと努力だけでは到底及ばない、と聞いております。

難関を通過し、 文字通りどんな書物にも精通し、古文書も解読し独自の研究が認められてる自他共に名文学者です。

その図書館に、みそぼらしい老人が、毎日やってきては書棚を見渡して帰ります。何か月も続くので、館長が見るに堪えなく、声を掛けました、ご老人何を探しておられるのか? 

早く探して帰ってくれないとと迷惑です。私は、ここの書物一冊残らず読んでおり解らない物は何一つ無いから、と詰め寄りました。

老人がそうですか? と床に座り身体を丸く折って頭を床につけました(禅の叩頭低頭こうずていとう)。それではこの字を読んでくれますか?

当然、知識に及ばない問いは、答えようがありません。老人は後の禅の高僧でした。無言で諭してたわけですが、 受ける側に読み切る力量ががなかったのです。つまり、身につけた知識、学問、経験に執着し拘ってると、いろんな苦難に対応できないと言うのが禅の教えです。

難行苦行の修行を積んで悟れと言うのが教えですが、一般の社会人には、敷居が高すぎて到底無理です。 そんな暇も余裕もありません。私は何年も落ちこぼれながらも修行を続け何とか、

一般人の日常に、誰でも、何時でも、何処でもできる 私の禅のイノベーション、新独坐法は、執着心や拘り、分別を捨て、心の平穏を取り戻すセルフコントロールの訓練法としてお勧めします。

                             新独坐法と現代禅画 芝暗生

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