新独坐法

新独坐法は信じる人の為に在り、新独坐法の為に人がいる。訳ではない!

どのくらい前の話か確かではありませんが、充分今でも当てはまる話ですので、ご一緒に考えてみてください

ある幼稚園の子供の教育の一つとして、禅宗の寺へ坐禅体験をさせました。

作法どうり、足を組んでください、子供は骨が柔らかいので少々無理でも組めます。

背中を立て、目を半眼にしますと、次に両手を宝珠の形両親指をつけて他の指は手のひらにおいて宝珠にしますと。

僧は、これはあなた方の手の平に仏さまが乗っておられるのですよ、と説きます。

雨が降ってる折り、雨がきつくなってきた時、幼児の一人が手のひらを上下にしてしまって、いくら手の形を注意をされても聞き入れません。

僧はこれでは坐禅にならないので、先生に何とかしろ と促します。

それでも聞き入れない幼児に、とうとう先生に連れだすよう言いつけ、禅堂から追い出した。

二人だけになって、先生が幼児に聞きただすと、だって仏様が雨に濡れるので可愛そうでしょ、と泣きながら訴えました。幼い心を摘み取ってしまった。

伝統を守り伝えるだけが真の道では、悲しいかな時代に合っていません。

これこそ仏教は信者の為でなく、仏教の為に信者がいる と言わざるを得ない。これは、私の失意のどん底に落ちた実体験ですが、70歳を超え膝がやられて足が組めません。トイレが近くなり途中で坐を外さざるを得ません。

禅堂に入るなら足をしっかり組め!トイレは我慢しろ!作法どうりやれ!

拷問に近い修行が待っています。 

拷問では人を殺しませんが、禅では坐布の上で死ね と教えます。

出来なければ当然のように門前払い破門でした。

信ずる心の支えを失ってしまいました。

人間として最低限の尊厳は残ってて、続けるならそれも捨てろと言われても出来ません。

確かに参禅のお蔭様で現役時代の苦難を無事乗り切る事が出来ました。

障害がある人、座れない人(今の50歳代は胡坐もかけません)型に嵌めて外れれば、受け入れないのが現状です。

常々思ってたことは一般人、ビジネスパーソンが心が救われる何かを求めても日々の事として 間に合わないと言う事です。

私は何の手掛かりもなく独坐に逃れるしか道がなかった、これが現実でした。

続けてるうちに、坐禅に対する立禅と呼ばれる道教をベースとした武術太極拳に出会い、そこに自らの境地が見出されました。仏教を離れた、自身の問題提起です。

だれでも、どこでも、何時でも 出来るストレス、パニックの心のセルフコントロール法で、心の平穏を取り戻す近道の鍛錬法です。

禅のイノベーション 新独坐法 は椅子に座っても、ベッドの上でも効果は同じで、病人さんでも、車椅子の方 信ずる人の為に有るのが新独坐法 です。

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