禅の教え

迷った時には

長い間迷ってた迷いについてやっと今整理がついたようです。
私の人生振り返ると、ビジネスで会社のトップとして、さあ、どちらを選ぶか迫られる時、いつも迷いながら心配しながらしてました。引退するまで続きます。

予測つかないから当然です。しかし言ってられません、もし判断が狂ったら取り返しがつかない致命傷になる事との背中合わせです。

迷いにつてのビジネスハウツー本も漁りました。どの本もそうですが専門家が必要とするレベルでなく文章が上滑りする内容が多くても、あおって普通によく売れてるわけです。
コンサルや弁護士の意見も聞きました。 立場は一緒で結果が悪くても誰にもクレームをつけられない、自己責任が基本です。

つまるところ 自分がしっかりしないといけないのが 迷い の手厳しい対処法です。

一般社会生活でも、家庭の子育て問題や対人関係、投資、学校選び、婚約者選び、就職選びありとあらゆる人の営みの中で、迷いが生じてます。 

生きてる限り万人が平等に与えられた難問です。 

この判断成非こそが人生の幸運と悲運を決定ずけてしまいます。

先のわからない迷いを どうするか! 

仏教哲学の指針ですが 

月を探して指し示す指は、その月ではない(指してる指でしかない)、見つけてじっと見入ってる瞬間は月と自分に隔たりがなく、月そのものと一体で月そのものです。

月とは? と問いをだした瞬間に月自体が去ってしまう。そしてまた月を探し指す指迷い)に戻ります。

迷い に迷ってるのは月さす指で 迷いそのものでない、(取り越し苦労)迷いそのものに取り組んでる時(月と一体)迷いと一体ですから 迷いの分別(見たり聞いたりの理屈)がない、

解らない先をあれこれ取り越し苦労(突き刺す指)に又迷いに戻ってしまうわけです。

例えば、ゴルフでも狙った先へボールを落とすため、ありとあらゆるケースを想定する

そして、どれがよいか迷いに迷う、そこで決めても迷ったままで打つプレイヤーと一つの心境(これしかない)で打つプレイヤーとでは、勝負にならない。

全てにおいて、言えると思います。解らない実体のないものにああれこれ、想定する事が無意味で、迷いだけになり決断下せば、不安、迷いから解き放され結果も気にならない  

と言う生き方すれば、フリーで自由なアート感覚で生きられるのではないでしょうか。

                         新独坐法 新現代禅画 芝暗生

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